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学生射撃そのころ


この文章は昭和初期に書かれたものです。時代背景が偲ばれるものです。
文章は校正を加えておりません。


師尾 源蔵



日本の学生スポーツのなかに小銃射撃が利用されたのは、他の競技運動に比較してわりに新しい。また、この射撃運動ほど社会の思想的動向に影響を受けたものも少なくなかろう。日本に初めて大正4年に東京帝大小銃射撃部が生まれ、大正5年に明治大学射撃部が組織された。しかし前者はまだスポーツというよりは、軍隊的精神により発生し相互の修養をなすという程度にとどまった。そのころ東大は総長山川健次郎博士が学生のため300丁も銃を買ってくれたそうだが、明大はそんな豪勢なものでなくすべて学生有志の自治により、在郷軍人会の射撃会のあるごとに、今は廃止されたが青山射場に押しかけて頼みこみ、鉄砲も臨時に拝借して、趣味を主として撃たせてもらったものだ。そして近年はないが東京衛戌射撃大会等には飛び入りで賞状をもらった学生も多かった。


そんな状態で大正10年ごろまでは帝大、明大の二大学のほか学生射撃団体は存在して:おらない。それに欧州戦後、平和熱が極度の反軍思想を扇動し、政治家も、学者も、労働運動のリーダーもことごとく軍人を排斥し、軍服を着て電車に乗っている将校をすら白眼視したものである。だから学生間で鉄砲を撃つことなどは、当時の社会通念においてはまことに意想外に心得たもので、私どもが大学の校庭で鉄砲の掃除をしておったら、左翼派学生は投石して軍閥の走狗などとののしり、こちらも何くそと憤慨し野球はアメリカン・インディアンの争闘の具から発達したものではないか、弓術も庭球も、剣道も同じことだ、スポーツのひとつとして鉄砲を利用するのがどこが悪い、と銃剣を右手にひきぬいて校庭で立会い演説を何度やったか知れな:い。今から考えるとまったく感無量のものが多い。


大正11、2年のころは、国防問題に一般学生が好奇心をもちはじめたので、明大射撃部は、国防の理解と学生の修養になれば一挙両得だというので、下志津、習志野などの陸軍演習廠舎に宿泊したり、所沢、霞ヶ浦、横須賀などの飛行場や軍港を見学し、兵式教練までやった。おかしかったのは、学生野外演習隊を編成すると、麦藁のカンカン帽、中折帽、ソフト帽などが多く、関東震災時の自警団のものものしい異様な姿で鉄砲をかついで走ったことである。また、もの珍しい臨時の軍隊生活や軍港施設の参観学生がいつも何百人もあって、珍しいもの見たさという以外何もなかったらしい。早大の軍事研究団の会合で、白川義則陸軍次官らが、早大講堂で左派学生から侮辱を受けたのもそのころであったろう。


学生が定期的に射撃練習会を実施することには相当の困難があった。最初のころは大会ごとに有志先輩学生が相集まり、各自の本箱やふとんまでたたき売って弾薬代を捻出し、これを一般学生に無料で撃たせて射撃趣味の普及発展に腐心しなければならなかった。


たしか大正12年の夏休みごろだったと思う。明大射撃部員約40名が赤坂の近衛歩兵第3連隊から兵器被服を借用し、千葉県不志津陸軍廠舎に野営を実施したとき、私がその団長で両国まで市内を行軍したが、角帽大学生の背嚢を負ったラヅパ手つきの軍装部隊など初めて目にするので、市電の乗客は顔を出してのぞき、日比谷の停留場などでは黒山のような見物人を押しわけ、民衆の嘲笑のなかを「ここはお国を何百里」をどなりながら行進したものだ。そのころは中学、大学専門学校に教練など実施されていなかったので、軍隊側ではとくに指導教官をつけてくれ、宿営にもずいぶんと便宜をはかってくれた。


神宮競技は大正13年11月明治神宮祭をトして第1回を催したが、射撃はまだ団体ができていないという理由で、当時の主務官庁であった内務省衛生局はわれわれの希望を入れなかったので、明治大学学友会射撃部は一般の要望により第1回関東大学専門学校射撃大会を主催し、東日が後援となり11月3日赤羽工兵隊射場においてこれを行った。


その準備中のこと、私たちが東京の各新聞社を訪問して射撃大会の後援を依頼したが、みなお断わりをこうむった。その理由も今から考えると唖然たるものであるが、軍隊のまねをする射撃などはスポーツじゃない、軍閥のまねを後援などしたら新聞社としては立場がなくなるというようなご挨拶。


悲憤やるかたなく、万策つきた私どもは当時の陸軍省新聞班に桜井大佐を訪問し、射撃をスポーツ化し普及発達させるには、大衆的な新聞社の後援という名義がなければ、学生としては社会人の国防精神の誤解をぬぐう方法がない。世間は新聞社の名がなければ鉄砲の大会など信用しない。また、学生の持ちよりの小遣い銭で大会をやるのだから、優勝旗もぜひ1本ほしい、と申し入れた。


じつは旗よりも大新聞社の背景というのがほしかったのである。この世相において杜会に認識させるには新聞をつかむのが第一と思ったからだ。それもこのような反軍熱の旺盛なおりからだから困っていると相談したところが、桜井氏は東京日々新聞事業部長小野賢二郎氏を紹介してくれた。当時どこの新聞社も露骨に断わったが、東日だけが「しっかりやりたまえ」とさっそく優勝旗一旗とメダル若干を寄付してくれたので、そのときまったく嬉し泣きに一同は手を握り合った。


また、そのころ新聞社ヘニュースとして射撃大会記事をスポーツ欄に紹介方を頼み歩いたが、どこも受け付けてはくれない。ちょうちんもちではないけれど、ほんとうに東日だけが大会の成績を発表してくれた。昨今は新聞通信社のほうから記者がとんできてくれるし、ラジオのニュースにもあちらから紹介してくれる時世となったのも、他の競技の発展過程には考えられない国民思想問題の有為転変の影響であり、まことに今昔の感ひとしおの思い出のひとつである。


日本における最初の学生射撃大会は、こんな事情から、大久保射場でやっても学生の流弾が飛ぶからと、またまた世間から抗議が出て、不便であった府下の赤羽射場に印刷物配布後、急に会場の変更をよぎなくされ、とにかく第1回は走りまわって勧誘し帝大、早大、法政、商船、日医、明大の6校が参加し、帝大が優勝した。小銃は全部主催者が38式歩兵銃を貸与し、帝大だけは30年式銃を持参し、他は自校の銃などは1丁もない。法政はどうしても8名の選手がそろわず明大から選手を貸してやった。明大は40〜50名も部員がいたが、他の各校部員は10名内外であった。


大会の会長は赤神良譲氏、顧問に山川健次郎氏を推したが、第一師団の磯谷中佐が何かと斡旋してくれたものだ。そのとき大会参加の各校学生代表の早大赤羽、帝大小林、商大野矢、明大阿部、田中、有馬らが集まって東京における学生射撃連盟設立の相談をたし、翌大正14年4月その発会式を行った。その後、河本禎介博士(帝大教授)らが洋行より帰朝し、同年秋の第2回神宮大会から射撃も参加できるようになった。


その歴史ある関東大会は、8年目より河本博士の斡旋により関東射撃連盟に委譲された。今秋は第13回の選手権大会が全日本学生射撃連盟の名において行われた。また、明大主催でこれも東日、大毎両社が後援して大正15年その第1回を行った全日本中等学校射撃大会は、昨年より新たに誕生した大日本中等学校射撃協会がこれを主催し、その第11回を今夏実施する予定である。全大会とも東日寄贈の優勝旗は、1旗ずつそのころの学生射撃競技の苦難史を語って大会に飾られている。