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学生射撃復活の前後


この文章は昭和44年に書かれたものです。


芹沢 新平



戦後学生射撃が復活したのは昭和28年である。その年の6月28日、小石川の室内射撃場(昭和39年現在の岸記念体育会館内に移るまで、ここに日本ライフル射撃協会の本部があった)でOB十数名、学生約30名のささやかな会合が開かれた。


大先輩故師尾源蔵先生が奔走して集められた有志学生諸君の姿であり、学連復活第一歩の力強い息吹きであった。ここでライフル射撃の歴史の歯車を8年ほど前にもどしてみよう。


終戦直後の日本射撃界


昭和20年10月、私が終戦により豊橋から帰還して小石川の本部(戦前の大日本射撃協会のことであって、現在の室内射撃場が本部事務所であった)を見に行ったときは、付近は一帯焼け野原、となりの牛天神も、前のお屋敷(現在学校になっている)も!


残っていたのは協会と裏の忠霊顕彰会の二棟だけであった。そして協会も、日本学生射撃連盟も、全日本中等学校射撃協会(現在の高校連盟の前身)もその他すべて解散してしまっていたのである。


そんな状態の本部(すでに実体はなくなっていたのだが)に、ひと月たち、ふた月たつとポツリポツリと前のメンバーが集まるようになった。その顔ぶれは、平尾さん、斉藤さん、谷さん、師尾先生、千葉(謙)さんらで、記憶に浮かんでくる。集まって話をしているうちに、グループの再建と土地、建物トンネル射場の確保を急がなければ……ということになり、まもなく《財団法人日本学生文化協会》を設立し、これに射撃協会の全財産を委譲したのである。


後継団体ができたとはいうものの、もともとは射撃人である。どうしても射撃をしたくてしようがないのである。めいめいが焼けのこりの空気銃をもちより、となりの天神様の境内を借りて練習したり、トンネル射場の入口の前のちょっとした広場で練習したり、あるいは飯倉にある石崎さんの奥さんの実家の庭を借りて競技会を開いたりしたものである。


そして関東では《東日本射的倶楽部》、関西では《西日本射的倶楽部》という名称で射撃活動もようやく活発になってきた。このころになるとメンバーもおいおい増加し、射撃協会復活の機運も熟し、ようやく昭和24年9月に《日本射撃協会》(クレー射撃と合同で)として正式に発足し、翌26年5月日本体育協会に加盟、同年12月国際射撃連合(U.1.T.)に再加盟を認められた。国民体育大会は昭和21年より始まっていたが、たまたま昭和24年は東京で開催され、これにライフル射撃として初めて公開演技として参加することができた。そして昭和26年の広島大会から正式種目として参加している。


昭和25年4月2日、待望の後楽園射撃場(現在の小石川SBR射場)の「射場開き」を催した。


トンネル内50mのところに土手を築き、監的堀を掘り、照明設備をほどこし三個的、トンネルの入口外側に大きなシートをぶら下げて光線を遮断し、そのシート裾の端をちょっともちあげて出入りするという、すこぶる原始的な設備であったが、SBRが撃てるというので一同ニコニコ顔であった。


5月7日には高輪の光輪閣の座で米軍家族を招待し、日米射撃大会を開いた。関西からも八十原さん扇子さん、本間さん、丹羽さん、川瀬君らが参加し、戦後初の国際交歓競技会として大成功であった。またその間に都民空気銃射撃大会も何回か開催した。新聞社の後援を得て四ツ谷の上智大学のグラウンドを借りたり、小石川のトンネル射場の上の広い空き地(現在忠霊塔や中央大学の校舎が建っているところ)を借りたりして開催し、参加者も200〜300人の多きを数えた。そしてこれが東京都ライフル射撃協会設立の母体となった。


このような射撃環境の熟成につれて、われわれの後継者の必要性を強く感じたのである。


もともとわれわれ自身が学生時代から射撃を楽しんできたのであるから、ぜひ学連を復活して今の学生さんにも新しい射撃を楽しませたい、そしてあわせてわれわれの後を継いでもらいたいというわけであった。それにもまして重要なことは、戦前もそうであったが、日本ではライフル射撃の中心は学生射撃であるという点である。


師尾先生再度の大活躍


ここで大先輩である故師尾先生にご登場ねがうわけである。師尾先生は大正14年、戦前の学生射撃連盟の創立者であり、昭和37年ついに東京オリンピック大会を見ずに亡くなられた。「学生の復活」という射撃協会の大方針実現のため27年ぶりに先生の二度目の大活躍が始まった。なにしろ射撃部のOBもいなければ、射撃を知っている先生などひとりもいない大学にとびこんで説明し、納得させ、何名かの学生を集めさせるには、どれほどの努力と辛抱が要求されたことだろう。


先生は関東、関西何校を回られたか知らないが、そのなかから冒頭に記したように、ようやく創立会を開くまでにこぎつかれたのであって、その間のご苦労は察するにあまりある(このあと先生は昭和34年には高等学校射撃の指導を買って出られた)。しばらくして創立総会は開かれたのであるが、誰がその面倒をみるかということになり、結局、出席OB全員の意見で私に一任されることになった。また、その手伝いとして国学院のOBの河野さんが推薦されご本人もこれを承諾された。学生の幹事長に明大の横山長幸君が推薦され、学連はここにいよいよスタートしたのである。


つづいて芹沢、河野の両名協議のうえ、学連の構成、規約文の作成、行事等、次々に実行の段階を踏み進んだ。この結盟の日より約3ヵ月、同年9月、最初の行事として連盟結成記念競技会を開催した。澁谷若木町の国学院大学のグラウンドを借り、創立会の霧雨につづいてこの日も小雨にぬれながらも、エア・ライフル競技を行った。参加校は10校近くあったと記憶している。


当時は銃刀法はなく、グラウンドを取り巻く隣家のコンクリート塀をバックストップに見立てて標的をならべ、銃もスプリング銃とポンプ銃(ともに現在のものと比較し性能的に数段劣る)で、弾が途中の草に当たるとピューンと音を立ててどこかへ飛んでいってしまうという、しごくノンビリした競技会風景であった。またこのとき、グラウンドの一隅に大学の学長先生のお住いがあったので、ちょっとご挨拶に参上したところ、逆に「お祝い」を頂戴しかえって恐縮した一幕もあった。


全日本学生選手権大会のスタート


昭和29年10月、第1回全日本学生射撃選手権大会と銘打って盛大に公式大会を開催した。場所は中野警察学校射撃場および小石川トンネル射場であったと記憶している。参加校も増して15,6校になっていたと思う。この大会はエア・ライフルのみ(フリー:およびスプリング)で同志社大学が優勝、初の優勝杯を関西に持ち帰った。その席上今後の大会の開催地が話題になり、全校の一致した意見で隔年、関東関西で、昭和30年は関西で行うことが決定し、そのとおり実現した。


第2回大会は、昭和30年10月26日大阪城南射撃場(旧陸軍の射撃場)と大阪府警察学校射撃場で行われ、明治大学が優勝した。この大会からスモールボア・ライフルとエア・ライフルの総合成績で順位を決めるようになった。


第3回大会は、昭和31年11月神奈川県営富岡射撃場において行われ、このときは慶応義塾大学が優勝した。


以来、関東はこの富岡射撃場、関西では大阪城南射撃場と大阪府警射撃場において、隔年に開催された(関東では昭和37年以降は朝霞オリンピック射撃場を使用している)。


学生の幹事長は、初代は前述のように明大の横山長幸君、二代目昭和29年は慶応大学の間瀬正三君、三代目昭和30年は慶応大学の宇津木卯太郎君、四代目昭和31年は早稲田大学の乃美幸一郎君、五代目昭和32年は中央大学の田中紳二君であった。


また、学連事務局は学連復活の当初から芹沢方に置き、現在にいたっている。


(『学生射撃』S.44)